夕陽 2014 5 10

楽遊原 李商隠

向晩意不適
駆車登古原
夕陽無限好
只是近黄昏

夕暮れ時、心が落ち着かなくなり、
車を走らせ、丘の上に登る。
丘の上から見る夕陽は、限りなく美しい。
しかし、この夕陽は終わりに近く、消えていく。

 この漢詩は、単に夕陽を眺めたものではありません。
この詩が詠まれた時代背景を考えると、
あるいは場所を考えると、政治的なものだったと言えます。
(参考文献 「朗読で味わう漢詩」 石川忠久 青春出版社)
 李商隠が、今の中国に生まれていれば、
やはり同じように、「只是近黄昏」と書いたでしょう。
 中国が傾くとすれば、
日本を敵に回してしまったことです。
 中国が世界的な覇権を確立するには、
日本を取り込む必要があったのです。
 にもかかわらず、反日運動を起こしてしまったのです。
これは、ケ小平の後、弱い指導者が続いたことが原因です。
 自らの権力基盤が弱いために、
反日運動によって、自らの権力維持に執着してしまったのです。
これは、長い目で見れば、中国の国益に反することでした。

日中友好の暗転 2013 4 28

 多くの日本人は、「日中友好の暗転」というと、
尖閣諸島や靖国神社のことを連想するでしょう。
 しかし、こうした問題は、
外国政府の意向を受けた日本のマスコミや政治家が大騒ぎしているだけで、
事の本質から少し離れたものとなっています。

書名 中国人による中国人大批判
著者 金 文学  祥伝社黄金文庫

 さっそく、この本から引用しましょう。
「国策としての反日」
「反日は、いつから始まったか」
 反日の深層を探るための最も有効な方法は、
毛沢東・ケ小平時代と江沢民・胡錦濤時代を比較することです。
 一言で言えば、
前者は、親日的で柔らかい対日観に支えられていたのに対して、
後者は、反日的で強硬な対日姿勢であるという対照があります。
 つまり、中国政府と執政者の対日政策によって、
親日・反日の境界が、はっきり分かれるのです。
 新中国の成立後、毛沢東の中国政府は、
親日で穏やかな対日姿勢でした。
 ケ小平時代も、四つの近代化建設のため、
日本が最大の近代化モデルであり、
日本は、よき学習と合作のパートナーでこそあれ、
悪ではなかったのです。
 しかし、1990年代から、江沢民政府となって対日姿勢は豹変します。
それには隠された秘密があります。
政権の腐敗や失敗、山積した国内の矛盾に対する国民の不平や不満を、
外に誘導するという目的から、反日が、最も有力な利用手段として浮上したのです。
 1990年代から現在まで、中国人の反日感情が急上昇した原因は、
中国政府の意図的な反日感情の操作とプロパガンダにあります。
 国内の混乱をまとめるため、
一致団結してアタックする敵として、
ふさわしい条件を備えたのが日本だったわけです。
 反日プロパガンダのため、
中国政府が徹底的に実施したのが、「反日教育」です。
 とりわけ、1990年代からの教科書が「反日」洗脳教育のため、
人為的に作られました。
 1994年から、江沢民主席の直接指示の下、
全国レベルの愛国主義キャンペーンが繰り広げられ、
1995年には、抗日戦争勝利50周年の記念キャンペーンを行い、
全国津々浦々で「抗日記念館」「抗日烈士碑」「抗日戦争遺蹟」などの建設が、
著しく増加しました。
(以上、引用)








































































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